NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~」の放送が終わり、脚本を担当した宮藤 官九郎※さんが執筆にあたっての思いを語っています。
「いだてん」の重要ポイント
宮藤官九郎さんはNHKのインタビューに答えて、「幻のオリンピック」と呼ばれている1940年の五輪大会開催の計画にまつわる史実を知り、この経緯を大きく脚本に取り上げたと話しています。
この方針について、宮藤さんはこのように説明しています。
「『いだてん』は明治から始まり、大正、昭和を描くドラマでしたが、なかでも“幻のオリンピック”はすごく時間をかけて描きたい重要なポイントでした。
1940年に東京オリンピックが開かれるはずだったというのは、僕自身、知らなかったことですし、世間的にもほとんど知られていないでしょう。
これは日本人として知っておくべき歴史だと思ったので、そこに時間を割いたんです。
その思いは果たせましたが、おかげで満州のエピソードがすごく駆け足になってしまい、40回以降は、どのエピソードを切り落とすかとの戦いでした。
あと2話分あればアレもコレも拾えたかなぁ(笑)。」
「幻のオリンピック」とは
1940年に東京で開催予定だった五輪大会が「幻のオリンピック」となった理由には大きな世界の動きが関係します。
1936年(昭和11年)夏に開かれたIOCベルリン総会で、日本代表として嘉納治五郎が演説を行ない、見事1940年オリンピック開催地に[TOKYO]が選ばれました。
しかし、ベルリン総会では一旦開催地が東京に決定されたものの、その翌年の1937年(昭和12年)には泥沼の日中戦争が本格化し始めます。
また、1940年に東京・横浜に万国博覧会の開催も決まっていて、IOCは同時開催に対する懸念を抱くようになり、1938年(昭和13年)のIOCカイロ(エジプト)総会では東京五輪開催について激しい議論が交わされました。
結果的には嘉納委員が説得し、開催は予定どおり行われることとなりました。
その総会で心身ともに疲れたこともあり、カイロからの帰国途上の1938年5月4日(横浜到着の2日前)、氷川丸の船内で肺炎により嘉納治五郎は死去してしまいました。
享年77歳でした。
また、残念ながら、嘉納治五郎の命を削る努力にも関わらず、日中戦争の激化などにより、結局、日本政府は7月15日、閣議でオリンピック開催権を正式に返上することとなってしまいます。
その後、東京に代わってヘルシンキでの開催が決定したが、1939年(昭和14年)9月にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発したため、こちらも結局開催は出来ませんでした。
なお、夏季大会は開催返上・取りやめの場合でも第1回からの通し回次番号がそのまま残るため、公式記録上では東京もヘルシンキもそれぞれ1回は「みなし開催」となった訳です。
以上の決まりのため、歴史的には2020年五輪大会は、第3回目の東京オリンピック開催と数えられるそうです。
1964年が第2回目で、開催されなかったが、第1回目は幻の1940年のオリンピックとなっています。
このようにして、1940年の夏の五輪大会は東京でもなくヘルシンキでもなく、「幻のオリンピック」となってしまいました。
「いだてん」執筆後の感想
宮藤 官九郎は「いだてん」との出会いについて、次のように回想しています。
「『いだてん』の執筆が決まった当初は”最後まで書き終わらないうちに体を壊したらどうしよう”という怖さもありました。
でも、全てを終えた今振り返ると、やっぱりいい経験でしたね。
今だからできたと思います。
年を取ったらここまで情報処理ができなかったと思うし、逆に若かったらもっと自分を出したくなって、実在の人物よりも自分の頭で考えたことを優先したくなっちゃったかもしれません。
そう考えると、この年齢で、この体力で『いだてん』と出会えて良かったなと思います。」
2020年に開催される東京オリンピックを直前に、今までの五輪大会の歴史を知り、今度が第3回目の東京オリンピックだと分かりました。
これまでもいろいろのご苦労があったのですね。
※宮藤官九郎プロフィール
宮藤 官九郎(くどう かんくろう、1970年7月19日 -、宮城県生まれ )。
本名は宮藤 俊一郎(くどう しゅんいちろう)で愛称は「クドカン」等。
91年より劇団「大人計画」に参加。
映画『GO』で第25回日本アカデミー賞最優秀脚本賞を受賞。
以降も映画『謝罪の王様』、『TOO YOUNG TO DIE!若くして死ぬ』(監督も)、ドラマ「ゆとりですがなにか」、「監獄のお姫さま」など話題作を次々と執筆。
映画監督、俳優、ミュージシャンとしても活躍する。
NHKでの執筆は連続テレビ小説「あまちゃん」以来となる。